山口組組長司忍氏が以下のように語っている。
山口組・司忍親分「山口組には在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない。こうした者に社会は冷たい」
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1317465208/-100
≪山口組には家庭環境に恵まれず、いわゆる落ちこぼれが多く、 在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない。
こうした者に社会は冷たく、差別もなくなっていない。
心構えがしっかりしていればやくざにならないというのは正論だが、残念ながら人は必ずしも強くはない。
こうした者たちが寄り添い合うのはどこの国でも同じだ。
それはどこかに理由がある。
社会から落ちこぼれた若者たちが無軌道になって、
かたぎに迷惑をかけないように目を光らせることもわれわれの務めだと思っている。≫
山口組と言えば、三代目の田岡一雄氏が有名である。
田岡一雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B2%A1%E4%B8%80%E9%9B%84
≪戦後の混乱で警察力が弱体化し治安の悪い神戸の町と闇市を三国人から守るために自警団を組み、頭角を現し、二代目の死後、長らく不在の山口組三代目へ推す声が高まった。≫
山口組が今日の興隆に至る礎になったのは上記の対三国人自警団の功績である。
戦後、朝鮮人がやっていたこと 「田岡一雄自伝」より
http://www.tamanegiya.com/tyousennjinntohann19.11.26.html
≪終戦当時、国内には200万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5千人、48都道府県の7%強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。
三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。≫
戦後の一時期、日本はこのような状態だったのである。一説によると、この時の三国人愚連隊が勢力を拡大して今日の「広域暴力団」になったともいう。現在の暴力団組長に朝鮮人が多い理由としては納得できる説である。
≪昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で4、5歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。≫
日本のヤクザと三国人とのこのような抗争が当時は至る所で繰り広げられていたのである。
しかし、現在では日本人も三国人も仲良く暴力団をやっているようだ。
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2011年10月5日水曜日
司忍氏「山口組には在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない」
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